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【12月号書評】『柿沼守利作品集 Schri Kakinuma』(柿沼守利 著/建築資料研究社)

『柿沼守利作品集 Schri Kakinuma』
柿沼守利 著
建築資料研究社/2025年/264頁/A4判/9,460円(税込)

 

柿沼守利の言葉
評者:井上洋介(建築家)

 

 建築家柿沼守利のことを初めて知ったのはいつ頃のことだろう。今から20年前の2005年頃、雑誌『コンフォルト』が何号かにわたり氏の住宅作品を丁寧に紹介していて、強く印象に残ったのを覚えている。和風の趣きをもった住宅の、素材の扱いに新鮮さを感じた。重厚な落ち着きのある作風のなかで、素材の取り合わせとディテールの扱いは、伝統に根ざしていながら、現代的であり、独自の感性が感じられ、他の建築にはない豊かさを感じたことを思い出す。

 当時、僕はまだ30代の終わり頃、独立して数年の駆け出しであった。独立するまで住宅を設計したことがなく、苦労して作品がいくつかできたものの、これから何をつくっていったらいいのか、仕事の方向性に悩んでいた頃だった。
 揺るぎない世界観をもち、素材やディテールの一つひとつに強いこだわりが感じられ、こういう仕事ができたらなぁと、羨望と同時に、自分の才のなさを不甲斐なく思い、気持ちが沈んだ。

 プロフィールには、1943年東京生まれ。68年より白井晟一に師事、83年氏の逝去に伴い翌年に独立、とそれしか記されていなかった。白井晟一の弟子なのかと、とても興味がわいた。それにしても師と同じで、どこか謎めいていた。

 それから50歳を過ぎた2016年の春。
 仕事のキャリアもいよいよ後半だなぁと、意識せざるをえない年齢になっていた。
 それまでの仕事に一段落がついた時期だったのだろう。柿沼守利の建築をまとめて見てまわりたいと思い立ち、九州の旅に出た。初めて雑誌で見てから10年が経っていた。
 氏が独立した83年頃から20年に渡って改修の手を加えた旅館、唐津の「洋々閣」をはじめに、有田焼の深川製磁の展示施設であるチャイナ・オン・ザ・パーク「忠次舘」を見る。途中、白井晟一の親和銀行を再訪し、福岡にある「光圓寺」、和菓子店の「五島」と、見学可能な建物はすべて見た。

 ひたすら柿沼守利と白井晟一の建築を見て、白井晟一から柿沼守利に流れているもの、いないもの、そのありかを探っていくような旅であった。

 有田のチャイナ・オン・ザ・パークは、白井晟一の影響が確かにあるのだけれど、それはどこか薄まり、白井の建築に感じる独特の臭みのようなものがとれていて、自分としてはむしろ心地良いものに感じられた。白井晟一の影響の他に、スカルパやミースの影が感じられ、それが一つの柿沼守利の建築作品として結実していた。建築家同士の、リレーのバトンと言ったらいいのだろうか。自分も興味のあったスカルパや、あるいはカーンからの影響を目の当たりにして、建築を通して柿沼守利と対話をしているような、そんな時間であった。

 福岡にある浄土真宗の寺院「光圓寺」は、前庭に立った時から、感動でしばらく写真を撮る気になれなかった。
 コンクリートが歌っているような壁を前に、カメラを持つ手がふるえ、目頭があつくなった。ずっとここにいたい。後ろ髪をひかれ、立ち去りがたい。そんな建築体験だった。

 今一度、自分なりにコンクリートの表現なるものについて見つめなおし、深く掘り下げてみたいと思うきっかけとなった作品である。

 その後しばらくして、何のご縁だろうか、「柿沼守利さんを囲む会に来ませんか?」と編集者からお声がけいただいた。伊豆長岡の「三養荘」の敷地に建っていた白井晟一の初期の住宅、「歓帰荘」を建築家の吉野弘さんが移築され、その取材を終えた打ち上げの会だった。

 九州へ建築を見てきた話や、氏の建築から白井晟一やスカルパの影響をどう感じたかなど、恐れ多くも正直に本人に話をした。

 柿沼さんは黙ってずっと聞いていた後、「スカルパはもちろん見ている、9回訪れている」と、さらっと答えられた。柿沼さんの発した、そのたった一言は、ガツンと頭を叩かれたような思いであった。自分では海外も含めてかなり建築を見ているつもりであった。好きな建築は作品によっては繰り返し訪れていたし、このくらい見ていればもう十分ではないかと、分かったつもりでいたような気がしていた。だが、道を究めている方というのは、ものを見ること一つとってみても、違うんだなと、思い知らされた。繰り返し見ることでようやく見えてくるものがあり、何かをしっかり受け継ごうとするなら、それ相応の覚悟と時間が必要だということも。

 その後2019年の春、雑誌『住宅建築』から柿沼守利の特集号が出版された際、その発売を記念した講演会が新宿で開かれた。

 質問の時間、九州を同行したうちの事務所の所員が、湯布院の旅館「亀の井別荘」の改修工事の際、現場にはどのくらいの頻度で通っていたのかと聞くと、「ほとんど毎日現場にいた」とこれまたさらっと答えられた。その一言もまた、今でもずっと心に残る柿沼さんの言葉の一つである。

 ご本人の話を聞くことのできる、ほんの少しの機会ではあったが、その話の数々をその後何度も思い返すこととなろうとは。そして今、こうして氏の作品集の書評を自分が書くことになろうとは。人生とは不思議なものである。

 この本の巻頭には柿沼守利自身が書いた良寛の詩が納められている。現代語訳はご本人によるものなのだろうか。

    嗚呼 真面目に生きたいものだ
    頭陀袋には托鉢で頂戴した三升の米
    暖をとるに足るだけの薪
    何も不足はない
    今や 迷いや悟りというものに
    拘ることもない
    まして 俗世の名利など
    今宵 この草庵で 雨の音を聴き

    私は 両足を伸ばして 独りを楽しんでいる

 

 そして私が知る限り数少ない本人の書いた文章、あとがきを読む。

 「師亡きあとのわが歩みを顧みれば、洵に慚入るばかりである。」(籬楓隻語)

 「こうして拙作の羅列をみるにつけ、永きに亘って師の薫陶を受ける縁にめぐまれながらも仕事は萬分の壱にも満たず、何一つ体得できていなかったと、自省の念にかられる次第でございます。」(あとがき)

 そして最後に陶淵明の詩で、作品集は締めくくられている。

 人生実難
 死如之何
 嗚呼哀哉

 それを読んでふと、晩年の白井晟一が自分の作品集の巻頭に書いていた書を思い出した。

 「長い年月を細々だが、よく仕事を続けてこられたものだと思う。それにしてもいつの場合もそうなんだが、完成の後を、再び見にゆくということは殆どなかった。怠惰ではなかった。ただ胸をはり、心を満たす仕事のできなかった自分への辱しさがなによりの理由だったにちがいない。ふりかえってみれば、どんなに精出した仕事もこうしてふるくからの写真をつきつけられると、つくづく勉強、いや人間的なものへの省察不足は蔽いようもない。そういう述懐はまぬがれないのである。(中略)いずれにしても自負にもはるかな未熟な仕事が縁となってあたえられたこのような友情は、かならず自戒への鞭撻へ転生させずにはすむまい。」
『白井晟一とその世界』世界文化社、1978年7月

 

 柿沼守利はどのような思いで白井晟一の背中を見続けたのであろう。どのような思いでこの作品集を残したのであろう。
 この2人の言葉を読み重ねながら、師弟のあいだに流れているものをはっきりと感じた。

そこに存在するであろう、渡された重たいバトンの中身とは?

 いったい何であったのだろうか。

 

 

 

井上洋介(いのうえ・ようすけ)

1966年 東京都に生まれる。1991年 京都大学工学部建築学科卒業。1991年~2000年 坂倉建築研究所勤務。2000年 井上洋介建築研究所設立。

【掲載号】2025年12月号

 

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