【4月号書評】『カルロ・スカルパの日本』(J・K・マウロ・ピエルコンティ 著、三浦敦子 訳/鹿島出版会)

『カルロ・スカルパの日本』
著=J・K・マウロ・ピエルコンティ 訳=三浦敦子
鹿島出版会/2024年/164頁/A5判/2,970円(税込)
ジャポニスム2.0
評者:土居義岳(建築史家、九州大学名誉教授)
イタリアの建築家カルロ・スカルパ(Carlo Scarpa、1906年~1978年)といえば1970年代の日本における高評価を思い出す。もう半世紀も前のことだが、稲垣栄三、磯崎新、横山正、豊田博之らが言及している。その成果がSD誌『現代の建築家 カルロ・スカルパ』特集(1981年)であった。巨匠も現代人であったのである。評者にとっても同時代人であった。
ちなみに1978年に仙台で客死したスカルパのために、磯崎新は追悼文を書いている(1984年)。『挽歌集』(2014年)に再録されている。フランク・ロイド・ライトに敬意をはらいつつも彼よりも東洋をふかく理解しているというスカルパの自負、京都とイタリアのヴェネト地方との風土的類似性、素材の巧みな折衷的利用などを端的に述べつつも、磯崎は想像を膨らませる。なぜ仙台なのか。松尾芭蕉『奥の細道』にならって失われた黄金の国平泉を目指していたからではないか、という魅惑的な想像を彼は述べる。
もちろんスカルパは建築家になる前は職人としてのトレーニングを積んでいた。そうした彼が、素材について鋭敏な感覚をもち、異なる素材の接点である細部の納まり(接合)に関心をはらうのは道理である。共感した日本人には茶室に詳しい専門家がいるのはたまさかではない。基本的なレベルで同じ興味をすでに共有していたのである。そして大学でのみ建築を学習したほとんどの建築家とは異質だとはいえ、19世紀から20世紀においては、建設技術をもつ職人的な建築家はけっして例外的ではない。フランスならオギュスト・ペレ、ジャン・プルヴェはそうした工房・設計事務所一体型の代表例である。スカルパを特権的な神棚においてあがめ奉るのではなく、彼にふさわしい一般論を考えてもいいだろう。
本書『カルロ・スカルパの日本』の著者J・K・マウロ・ピエルコンティはヴェネツィア建築大学の出身である。日本にも留学経験がある。現在はベネトン財団の催事スペースであるカ・スカルパの主任キュレーターである。訳者の三浦敦子はそのヴェネツィア大学に留学した経験もある。さらにカルロの息子トビア・スカルパによる「あとがき」はカルロの人となりを彷彿させる。
巻頭の、スカルパ撮影の写真は面白い。もちろん「スカルパ文庫目録」(153頁)には多くの和書が含まれている。二川幸夫、伊藤ていじ『日本の民家』(1962年)、SD編集部『白井晟一』(1975年)があるのはさすがである。あらかじめこれらヴィジュアルな知識をもったうえで日本の古寺や町屋を撮影したのであろう。オリジナル性を推測するのはむつかしい。一般的に日本美術は奥行きを無化してゆくものだ。スカルパは律儀に近景・中景・遠景を区別しているようでもある。端的にいうと石元泰博とは異なる。近景においては素材を見せ、遠景においてはランドスケープを強調しているかのように。それから東大寺においては大仏殿の写真は掲載されているのに南大門がないのはスカルパ本人のせいか、著者の選択なのか、よくわからない。1970年代の日本人ファッションの記録ともなっているのは余興なのであろうか。
「日本語版への序文」は彼が畳職人の仕事ぶりに感銘をうけたエピソードを紹介している。
「第1章―日本へ続く道」は、キヨッソーネ東洋美術館の日本美術コレクションや、ペーザロ宮におけるボルボーネの東洋美術館におけるボルボーネ・コレクションらが、ヴェネツィアに日本文化が紹介されるきっかけとなったこと、またエズラ・パウンド経由で日本文化に接したこと、1969年のイタリア家具デザイン展のためにはじめて来日したこと、その機会にさまざまな文献からいかに日本を見聞するかの緻密な計画をスカルパがたてていたことを紹介している。
「第2章―ライト、スカルパ、日本」では、伊勢と桂を最高傑作であり、日光は愚作とする20世紀前半には確立していた日本美学をスカルパは疑っていなかったこと、ヴェネツィア・ビエンナーレ切符館は千利休以来の四畳半空間構成を踏襲しているかもしれないことを、論じている。
「第3章―光と影」は、ビエンナーレ(1952年、 1958年、 1966年、 1968年)の展示空間デザインを、ミース・ファン・デル・ローエのバルセロナ・パヴィリオン、妙喜庵待庵における空洞理念との関連で論じている。
「第4章―時間」は、磯崎新プロデュースによる「間」展における時間=空間概念からはじめ、小津安二郎の映画にみられる「間」へと繋ぎ、それらをもってベネズエラ館やゾッパス邸を論じ、さらに「ずらし」概念へと広げている。
「第5章―日本の〝手引き“カルロ・スカルパの建築言語」は、職人から出発したスカルパの技術概念、日本的な「好み」概念を説き、ブリオン家墓地の空間を述べ、しばしば登場する交差する2つの円のモチーフが、スカルパが日本庭園を観察するなかで思いついたものであることを示唆している。
そして三島由紀夫の『金閣寺』(1956年)における美への嫉妬というモチーフにふれながら、「建築家の能力は技術の中に反映されるが、技術は波の間に浮かぶ板きれ以外の何物でもない」(148頁)というポエティックな達観で結ばれる。技術と芸術は相反しているというよくある皮相な二元論を超えて、著者は技術のなかに芸術があるという新たなビジョンを提示する。それはスカルパが母国でいだき、日本にふれながら深めた信念であろう。
読了しての印象を述べるとすればなによりジャポニスムであろう。19世紀のそれは好奇心に満ちたやや表層的といえなくもないものであった。それでもヴェネツィアのコレクションをとおしてスカルパには親しいものであったという指摘は重要である。
とはいえ著者が参照するのは20世紀の学習の深化にともなうそれであった。本書では岡倉覚三、小津安二郎、三島由紀夫、磯崎新らが20世紀において推敲していった日本的美学をバックグラウンドにして論考している。ただしパリの「間」展は1978年開催だから、同年に没したスカルパ本人がどれほど内容を咀嚼したかどうかはエビデンスがない。著者の想像による再構成だとするのがとりあえず無難である。ただそれも日本建築をめぐる広い意味での国際的な交流のなかで練り上げられたものなのであろう。
執筆し翻訳するなかで、スカルパ本人の思想に、著者、訳者の解釈が重ねられ、芳醇なものとなってゆく。読者は書かれたもののなかに異なるレベルの差異を読み解かねばならない。それはそれで楽しい。この楽しさはどこからくるのだろう。
著者が提供する多くの視点そのものも貴重な貢献であろう。164頁というコンサイスななかに豊かな多様性が凝縮されている。もっとのびのび書けばと、もったいない気にもなる。それは日本研究における新たなステージをも予感させる。すなわち日本的伝統はあるにしても、もはや伝統を直接分析することはできない。とりわけ20世紀という近代知の時代に、あらゆる伝統は、いちど分解され、検討され、再解釈され、再構成された。すなわち20世紀近代そのものについての研究をしなければ、伝統にも到達できないということである。伝統研究は同時に近現代研究でもある。それは解釈の積層である。だから楽しい。おそらくその上位のレベルにおいて日本文化についての国際交流もできる。すでにはじまっているそういう新しい時代において若い研究者が書いた一冊ということであろう。
ところで前述のようにスカルパは交差する二円をしばしば使う。このモチーフがみられるのがブリオン家墓地である。これは双眼鏡の形であり、墓所あるいは庭園をのぞむ枠組みであるという意味合いをもっている。建築家は金閣寺を見学してこの着想を得たらしい。著者はその点を重視する。金閣はその美をもって放火者をして嫉妬させ、みずからを焼失させる。そして美は接合部や技術からもたらされるがゆえに、はかない。著者の、そして建築家の独特の建築観である。それゆえに本書のカバーにも使われているのである。
土居義岳(どい・よしたけ)
1956年 高知県に生まれる。東京大学建築学科卒業。同大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学建築学科助手、九州芸術工科大学助教授、九州大学大学院教授をへて、九州大学名誉教授。フランス政府給費留学生としてパリ゠ラ゠ヴィレット建築大学およびソルボンヌ大学に留学。フランス政府公認建築家。著書に『言葉と建築』(建築技術)、『対論 建築と時間』(岩波書店)、『アカデミーと建築オーダー』(中央公論美術出版)、『建築の聖なるもの』(東京大学出版会)、『知覚と建築』(中央公論美術出版)、『空想の建築史』(左右社)、『古典主義時代の建築ミッション』(V2ソリューション)など。 日本建築学会著作賞、日本建築学会賞[論文]受賞。