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【4月号書評】no.516『京都出町のエスノグラフィ―ミセノマの商世界』(有馬恵子 著/青土社)

『京都出町のエスノグラフィ―ミセノマの商世界(バザールワールド)』
有馬恵子 著
青土社/2025年/454頁/B6判/4,620円(税込)

 

まちが喋る
評者:饗庭伸(東京都立大学教授)

 

 私たちは自分たちの意図のもとで空間をつくる。安全な暮らしをしたいとか、新しい商いを始めたいとかいった、一つひとつの意図は大それたものではないが、それが集積して、まちがつくられていく。そしてまちのほうが人より長持ちするので、最初の意図が達成されたあとは、次にやってくる人の意図によってまちは転用されていく。次にやってくる人が、まちにあわせて自身の意図を修正することもあるし、意図にあわせてまちを修正することもある。まちが喋るわけではないが、そこにはまちと人の擬似的な対話が生まれ、まちと人は相互に影響を与えあいながら、それぞれが変化していく。
 つまり、まちにやってくる人の意図の形と、それを受け止めるまちの形の相互関係がまちをつくっていく。計画されたまちには、ぴったり同じ形をした空間がたくさんつくられるので、そこにはたくさんの同じような意図が流れ込む。計画が弱いまちには、いろいろな形をした空間があるので、そこにはいろいろな意図が流れ込む。そしてまちが古びてくると、あちこちに小さく穴が開くように、いろいろな形をした小さな空間が現われるので、そこには形が違う意図がじわじわと、ゆっくりと流れ込み、そこでの空間と人の擬似的な対話がまちをゆっくりと変えていく。
 ある特定のまちにおいて、その擬似的な対話を描き出してみる試み、それが本書である。

 著者の有馬さんが対象としたのは、京都出町のまちである。京都には、いかにもややこしい、複雑な形をした空間が残っていそうであるが、そこではどんな対話が交わされているのだろうか。そして出町が京都の少し外側にあることもミソである。インバウンドの奔流が渦巻いている京都の真ん中あたりには、同じような形をした強い意図が押し寄せてしまい、強い意図で隅々まで統制されたピシッとした空間が現われてしまうが(それがいわゆる「ジェントリフィケーション」である)、そこから外れた出町には、いい感じの穴だらけ、隙間だらけの空間が現われる。それは弱く「何かをやってみようか」と考えている人たちに対して、「何かできるかもしれない」ということを考えさせる、受援力のある空間となり、そこには複数の弱い意図が、弱いまま存在することができる。
 有馬さんは、出町にかかわる人々の一つひとつの弱い意図をたどり、複数の意図がどうむすびつき、まちとどう関係をつくっているのかを丁寧に明らかにしていく。まちが喋ることはないのだが、「こんなことを出町は言うてはりますよ」と依童のように語ってみた、ということだろうか。
 都市の成長とか、近代化とか、空間の設計とか、まちづくりとかに侵された目からすると、「はよ喋れや」と結論を急ぎたくなるが、454頁という長尺の時間をつかって、この本はゆっくりと、出町の人々が織りなす意図と空間のあいだに分け入り、いろいろな人の口と、時に有馬さん自身の口を借りて、出町の喋りをつむいでいく。

 その「ゆっくりさ」は、古いまちと私たちが擬似的に対話するときの作法のようなものでもある。「いちげんさんお断り」のお茶屋さんが、貨幣だけでなく、そこにたどりつくまでの、貨幣で買うことがことができない、その人がそこまでに蓄積した人間関係=ソーシャルキャピタルを必要とするように、古いまちと対話するためには、貨幣では飛び越えることができない、関係のつむぎ方が必要なのである。
 古い空間は、もとの持ち主から新しい持ち主に、受け渡されていく。日本は相続の仕組みがしっかりしているので、家族の関係を手がかりにして空間が受け渡されることが多くある。しかしその関係だけを使って受け渡しをしていると、まちに次から次へとやってくる他人にいつまでたっても空間が受け渡されない。そのために、関係がない相手にも空間を受け渡すことができる仕組み、エージェント(不動産屋さん)と貨幣を媒体にして、知らない人から知らない人に空間を受け渡す仕組みも発達した。
 出町が「それだけやおまへん」と言ったかどうかは定かではないが、本書では出町で織り上げられている、貨幣だけを媒体としない、いくつかの種類の関係のつむぎ方、まちとの対話の仕方が明らかにされていく。評者が面白いと思ったのは、「まちづくり」という言葉で括られるちょっと肩に力が入った取り組みが、出町において一時期だけ空間を受け渡す仕組みとして機能したものの、もうその取り組みからはすっかり足を洗っているということであった。

 では、次なるその受け渡しの仕組みは何なのだろうか。まちづくりの次はコミュニティデザインだとか、その次は地方創生だとか、その次はプレイスメイキングだとか、そういう「次の時代はこれだ!」みたいな発展論にこの本は立っているわけではない。この本のなかでは、なかば偶然の、でも一つひとつは確かな、関係のつむぎ方が次々と明らかにされていく。
 そこに何らかの共通した方法はあるのだろうか。有馬さんは、長くアートの現場で活動していることもあり、そこに「アート」という言葉、行為をあてて考えていく。もはやアートを定義することすらアートである……というくらい、つかみどころのない言葉であるが、有馬さんはその言葉に「芸術と技芸」だけでなく、「通力」や「魔力」という意味を加えて、論をまとめていく。なるほど、まちづくりのような、頭でっかちの肩に入った力が抜け切ったとき、またそこには魔法の世界、呪術の世界、まじないの世界が現われてくる、ということか。九十九神が跋扈し、小さなまじないがたくさんある世界はなんだか楽しそうである。
 有馬さんはアート(=魔法!)や建築や、いろいろなことをやってきた人だが、この本は人類学や社会学の方法によってつくられている。先に述べたように、出町はいわゆる京都っぽさとは少し距離がある、どちらかというとありふれたまちであるが、そのありふれた日本のまちを、遠くの、馴染みのない民族の風習を眺めるように、突き放して見ることができるのもこの本の魅力である。本のなかで、一人ひとりの喋りにぐっと焦点がよることもあるが、喋りが過ぎてしまいそうになると、すかさずどこかからかき集められてきたデータが示されて遠景が確保される。地上1mのまちあるきでも、上空100mの航空写真でもなく、地上10mあたりの高さから、まちを眺める視点が徹底されているといえば分かりやすいだろうか。いまやGoogle Earthやドローンによって、誰もがつかうことができるようになった視点の高さでもある。有馬さんは注意深くこの高さを守り、人や空間に近寄ったり、離れたりしながら、出町における弱い意図と空間が織りなす対話の全体像を彫刻していく。本の終盤に、そのすべてをひとつの物語にまとめてしまいそうな、強烈な個性をもった人物が登場するが、有馬さんはそこでもぐっと踏みとどまり、彼であっても、出町の全体像のひとつであるということにしてしまう。

 かくして、喋ることができない出町のかわりに、多くの人たちの喋りと、有馬さん自身の喋りによる、まちと人の対話の全体像のなかに、私たちは巻き込まれていく。饒舌な喋りはあまりなく、まちに迫りきれないもどかしさが残るが、それは出町が「そこまで喋らんでも、分かりおす」と言ってくれているということかもしれない。そのもどかしさと、懐の深さこそが、いろいろな人を惹きつける、いろいろな人が対話をしたくなるまちの魔力なのであろう。
 なるほど、古くてよいまちとはそういうものなのかもしれない。

 

 

饗庭伸(あいば・しん)

1971年 兵庫県に生まれる。早稲田大学理工学部建築学科、同大学大学院卒業。博士(工学)。東京都立大学助手などを経て、2007年より東京都立大学都市環境学部准教授、2017年より同大学教授。専門は都市計画・まちづくりで、主に都市計画における市民参加、手法、人口減少時代の都市計画、震災復興のまちづくり、東アジアのまちづくりを研究。山形県鶴岡市、岩手県大船渡市、東京都世田谷区、石川県能登町鵜川などのまちづくりにかかわる。主な著書に『都市をたたむ』(花伝社、2015年)、『平成都市計画史』(花伝社、2021年)、『都市の問診』(鹿島出版会、2022年)、共著に『津波のあいだ、生きられた村』(鹿島出版会、2019年)、『コミュニティデザインの現代史 まちづくりをめぐる往復書簡』(学芸出版社、2024年)

 

【掲載号】2026年4月号

 

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